秋津洲 (防護巡洋艦)
艦歴 |
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発注 |
1889年度計画 |
起工 |
1890年3月15日 |
進水 |
1892年7月7日 |
就役 |
1894年3月31日 |
除籍 |
19271月10日 |
その後 |
1927年7月29日売却後に解体 |
性能諸元 |
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排水量 |
常備:3,150t |
全長 |
91.8m |
全幅 |
13.1m |
吃水 |
5.3m |
機関 |
二軸レシプロ蒸気機関、円缶(石炭専焼)6 |
燃料 |
石炭800t |
最大速 |
19.0kt |
兵員 |
330名 |
兵装 |
40口径15.2cm単装砲4基 |
- 秋津洲(あきつしま)は、日本海軍の防護巡洋艦。設計から建造までの全てを初めて日本国内で行った巡洋艦である。
- 艦歴
- • 1890年、横須賀造船部で起工。
- • 1894年3月31日に竣工し第一種に編入。
- • 日清戦争では、豊島沖海戦、黄海海戦、大連?旅順?威海衛?澎湖島攻略作戦等に参加。
- • 1898年3月21日、三等巡洋艦に類別。
- • 同年5月9日、米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣。
- • 1900年6月から10月にかけて北清事変のため芝罘警備に従事した。
- • 日露戦争に際しては、旅順攻略作戦、黄海海戦、日本海海戦、樺太作戦等に参加。
- • 1912年8月28日、二等海防艦に類別変更。
- • 第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加、フィリピン、シンガポール方面の警備活動に従事した。
- • 1921年4月30日、特務艇に編入され潜水艦母艇に類別、横須賀で使用された。
- • 1927年1月10日に除籍となる。
- 同年7月29日に売却され横須賀で解体となった。
壱岐 (戦艦)
艦歴 |
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発注 |
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起工 |
1886年3月8日 |
進水 |
1889年5月20日 |
就役 |
1891年5月13日 |
除籍 |
1915年5月1日 |
その後 |
1915年10月3日撃沈処分 |
性能諸元 |
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排水量 |
常備:8,440t |
全長 |
垂線間長:99.9m |
全幅 |
20.4m |
吃水 |
7.6m |
機関 |
2軸レシプロ2基 |
燃料 |
石炭 1,000t |
最大速 |
16ノット |
航続距離 |
4,900海里(10ノット時) |
兵員 |
611名 |
装甲 |
水線帯:360mm |
兵装 |
30.5cm40口径砲連装1基2門 |
壱岐(いき)は、日本海軍の戦艦である。艦名は、日本の旧国名「壱岐国」に因む。
•
概要
「壱岐」は、元はロシア帝国の艦隊装甲艦インペラートル?ニコライ1世(ロシア語:Император Николай I)であった。ロシア帝国海軍時代には、一時はバルチック艦隊の最有力艦艇であり、旗艦を務めたこともあった。
これが、日露戦争後に日本に鹵獲され、戦艦「壱岐」となった。最終的には標的艦として撃沈され、解体された。
艦歴
• 1886年3月8日サンクトペテルブルク、フランコ=ルースキイ工場で起工。艦種は戦艦ではなく艦隊装甲艦。艦級はインペラートル?アレクサンドル2世級。
• 1889年5月20日 進水。
• 1891年5月13日竣工し、バルト艦隊に編入される。但し、実際に稼動体制に入ったのは1892年のこと。
• 1904年11月3日ロシア第三太平洋艦隊(いわゆる「バルチック艦隊」)に編入されオデッサを出航。
• 1905年5月14日バルチック艦隊本隊に合流
o 5月27日 日本海海戦に参戦。
o 5月28日竹島沖で日本艦隊に追い詰められ「撃沈されるよりは」と降伏捕獲される。
o 6月6日戦利艦(二等戦艦)として日本艦隊に編入され、「壱岐」と命名。 12月12日 一等海防艦に類別される。
• 1906年 佐世保工廠で整備完了。
• 1915年5月1日 老朽化と旧式化により除籍される。。
o 10月3日伊勢湾外で戦艦「金剛」「比叡」の36cm砲の標的艦として撃沈処分された。
• 1922年解体。
黄海海戦 (日清戦争)
戦争:日清戦争 |
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年月日:1894年9月17日 |
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場所:黄海、鴨緑江沖 |
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結果:大日本帝國海軍の勝利 |
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交戦勢力 |
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大日本帝國 |
大清帝国 |
指揮官 |
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連合艦隊?伊東祐亨 中将 |
北洋艦隊?丁汝昌 |
戦力 |
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巡洋艦8 |
戦艦2 |
損害 |
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沈没艦なし,4隻大破 |
巡洋艦5隻沈没?大破 |
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黄海海戦(こうかいかいせん)は1894年(明治27年)9月17日に大日本帝国海軍連合艦隊と清国北洋艦隊の間で戦われた海戦。鴨緑江海戦とも呼ばれる。初めて近代的な装甲艦が実戦に投入された戦いとしても知られる。この海戦の結果、清国海軍は大きな被害を受けて制海権を失い、清国海軍が日本を脅かす事は二度と無かった。
概要
海戦は連合艦隊が鴨緑江の河口付近に停泊している北洋艦隊を発見したことから始まった。北洋艦隊はリッサ海戦におけるオーストリア艦隊に倣い横列陣で海戦に挑んだが、連合艦隊は単縦陣を用いた。帝国海軍の大型砲は命中しなかったが小型の速射砲で多量の砲弾をばらまき、敵よりも優れた速度で艦隊行動を行った。対して北洋艦隊の大型砲の命中は一発だけで、衝角を帝国海軍艦隊にぶつけて勝利しようとしたものの失敗に終わり、5隻の巡洋艦(「経遠」「超勇」「致遠」他)を失ったほか、その他の艦船にも重大な損傷を与えられてしまった。結果、北洋艦隊は撤退を余儀なくされ、威海衛へと向かった。帝国海軍は旗艦が損傷したため、北洋艦隊を追撃することはなかった。
この海戦では艦の速度が重要な決め手となった。また、巡洋艦が戦艦に抗することが可能であるということを示した戦いでもあり、後の海軍戦術や艦の設計に一定の影響を与えた。
日本海軍艦船に沈没艦はなかったが、旗艦の巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、特設巡洋艦「西京丸」、砲艦「赤城」の4隻が大破した。また、日本海軍が初めて経験する本格的な近代的海戦であったため混乱も目立ち、鈍足艦が敵の真っ只中に取り残されたり、他艦の射線上に別の艦が割り込んで砲撃を阻害したりするなどのトラブルが起きた。旗艦大破で追撃を断念した事に対しても、さらに追撃して攻撃を続行すべきだったという指摘もある。
「松島」乗組員の三浦虎次郎3等水兵が、清艦「鎮遠」の砲弾により重傷を負いつつ「まだ沈まずや定遠は」と、自らの重傷を顧みず戦況を心配するエピソードは軍歌『勇敢なる水兵』に歌われた。また、砲艦「赤城」艦長の坂元八郎太少佐の奮戦の様子も軍歌『坂元少佐(赤城の奮戦)』に歌われた。更には明治天皇自ら『黄海の大捷』という詞を残している。
感谢雪烨提供以上资料
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无计划无腹稿,每天看图,即兴乱侃,短兵相接,随看随说……漏洞百出,欢迎补漏。